沖縄メッセージ・・・心の平和と安らぎを求めて
絵本 つるちゃん ホームページ
西表なんくる島 ユイタとアガイのわったぁ家〜 あおじゅごん けい
絵本『つるちゃん』を手にしてくださったみなさんへ

想い

この絵本に出てくる「つるちゃん」のモデルは、私の母です。
幼いころ、母はよくわたしに戦争のことを話してくれました。
それはとても悲しい出来事で、人が死んで行くさまの残酷さを感じました。
母は涙しながら語り、何度もくり返し話してくれました。戦争を知らないわたしは、母といっしょに目を赤くしながら聞いていました。
母の体験は、沖縄戦に巻き込まれた住民がたどった、悲惨な出来事の一つだったのです。
母は、娘のわたしから見ても、めんどうみがよく、明るい性格の持ち主です。
人に気まずい思いをさせることのない母のふだんの言動からは、過去につらい体験をしてきた様子をうかがい知ることはできません。
他人に体験を話すことから来る〈はね返り〉の言葉を恐れ、思いを内に秘め、ひかえめに生活する母は、どこにでもいる沖縄戦を体験した「ウチナー(沖縄)の母」です。つらい思いを忘れたいがために、必死で働きつづけて生きてきたのでしょう。
そんな母の体験を、戦争を知らないわたしはどう受けとめたらよいのか……。
沖縄戦が終わって六十年以上が過ぎた今、母の思いを心の中にしまっておくか、それとも再び同じ体験をする子どもたちがないように、母の記録を事実として残しておくか、迷いました。
 そんなとき、偶然に、杖をつきゆっくり公園を歩いて緑をながめている老夫婦に出会いました。
「沖縄戦の図」「広島原爆の図」を描いた丸木位里・俊夫妻でした。
私は母を重ねて思い出し、「時間がない」という、時の流れを感じました。
日々、小学校で子どもを教えるものとして、県民の四人に一人が亡くなった沖縄戦の事実を知るにつれ、そのなかを生き抜いた母の体験を子どもたちに伝え残すことは、とても大切なことだと思いました。
やはり事実の記録を残すことにしました。もちろん、母もわかってくれました。
絵本『つるちゃん』は、このような想いの中から生まれました。
戦場を逃げまどう家族のとまどい、人の死に直面した恐怖、情報のない日々と、押し寄せる恐怖の中で、考える余地もなく、母・つるちゃんが見てきたものはどんなものだったのでしょうか。

国指定重要文化財・中村家にて読み聞かせ

沖縄戦

つるちゃんは1936(昭和11)年6月、沖縄島のまんなかにある中城村の和宇慶(わうけ)に生まれました。
一歳のときに日中戦争が始まり、太平洋戦争が始まったのは五歳のときでした。
つるちゃんがさとうきび畑やいも畑に行って、おいしい「じゅうしぃ(沖縄風のぞうすい)」をたべながら、父ちゃんのかつぐ天秤にのっていたころ、遠い南の島では、もう戦争が始まっていました。
しかしつるちゃんは、何も知りませんでした。
戦争がだんだん沖縄に近づいてきたと感じたのは、日本軍の飛行場建設が始まった1943(昭和18)年の夏のころです。
正常な授業はできなくなり、学童疎開も始まって、1944(昭和19)年8月22日には、学童疎開船・対馬丸が沈没しました。中城にあった二つの国民学校でも学童疎開がありました。
でも、つるちゃんは疎開船には乗らず、10月10日の那覇大空襲を見たのです。つるちゃん一家は戦争に備えるため、山の斜面に壕を掘ったり、食糧を蓄えたりしていました。
そして1945(昭和20)年3月23日に空爆が始まり、翌日には海からの艦砲射撃も加わり、26日、アメリカ軍は慶良間(けらま)諸島に上陸、とうとう4月1日には北谷・読谷海岸から沖縄島に上陸したのです。
沖縄戦のはじまりです。
アメリカ軍は、4月2日から3日にかけて中城方面までやって来ました。それからおよそ20日間、つるちゃんたちの隠れている中城一帯は、まさに戦場となったのです。
つるちゃん一家も、山道を南へ南へと逃げたのです。
5月末、やっとたどりついた南風原の陸軍病院壕でつるちゃんたちが見たものは、重傷病兵と入口近くに縮こまるようにかくれる住民たちの姿でした。首里の軍司令部・球(たま)部隊はすでに摩文仁へ後退していたのです。
家族が次々と亡くなる中、つるちゃんたちはなおも日本兵の後を追うように、南へと逃げたのです。
もし、東よりの知念半島側に逃げていたらと、今でも悔やまれます。
米須をぬけ、喜屋武をさまよい、摩文仁あたりの海岸へ降りてガマ(小穴)にかくれたときは、日本軍の組織的抵抗が終わったとされる6月23日をすぎていました。
つるちゃんと親戚のねーねー(養女に行った実の姉)が捕虜になり、宜野座に移されたのは、夏。
一週間後にねーねーは亡くなり、気がつくとつるちゃんは、ひとりぼっちでした。さとうきび畑も楽しかった思い出も、何もかも消えてしまいました。
これがつるちゃんの見てきた忘れられない出来事、沖縄戦だったのです。
その後、つるちゃんは捕虜収容所で過ごし、看護婦らしき人に助けられます。
中城にもどってからは、働くことで精一杯でした。勉強どころではありませんでした。
那覇で出稼ぎをしたり、基地の中で働いたりしながら生きていました。当時、生き残った人々は、誰もが必死で生活していたのです。
つるちゃん家族の名前が刻まれた
平和の礎
全国から届けられた感想文

絵のメッセージ

絵本の文章は、母に何度も確かめました。「春も近づく陽気な2月……」のように、季節の流れは沖縄です。1945(昭和20)年にも春夏秋冬の季節はあり、大自然が引き起こす蒸し暑さは、戦場にいた人々にとって一層つらいものだったに違いありません。
絵もいろいろ考えました。服の色、土の変わりようなど、どんな色をぬればいいのか、そして残酷さ……。わたしは「記録」することを大切に思いながらも、「絵本」であることを考えました。読む子どもたちや大人が目をそらすほどの残酷な描写はないと思います。
母のいまの明るさとやさしさは、黄色と緑の服。
ふたつの目では見られないほどの出来事を見てしまったという恐怖感は、「片目」であらわしました。
文章にない母から聞いた別のエピソードは、布・弁当箱・水筒・赤土などのように、あちこちの絵に描き入れました。母の想いは、絵にも込められています。
例えば、天秤に乗ったつるちゃんが持っているのは、実の姉からいただいた布でした。
当時は、布は貴重品です。親戚のお姉さんが、どうしてその布をつるちゃんにプレゼントしてくれたのか本人はよくわかっていませんでした。
そして、水筒の絵は、逃げる時に出会った兵隊さんとの出来事を描いています。
足の動かなくなった兵隊さんにつるちゃんは水筒を渡してあげますが、兵隊さんは水を飲もうとした時、鉄砲の弾にあたって亡くなったそうです。
絵のメッセージは、絵本ならではのものです。こうして出来上がったのが、絵本『つるちゃん』です。
海からの艦砲射撃を受けた場所に立つ

共感

機会があるたびに、わたしは『=沖縄戦=つるちゃん』や『=つしま丸=ケーイ』『=不登校=あおじゅごん』『=家と言葉を考える=ユイタとアガイのわったー家』など、絵本の読みきかせをしています。
唯一残された国指定文化財中村家住宅での読み聞かせ会も、年に一度の六月に、北中城村手話サークル若松・かけ橋、北中城村内読み聞かせサークル、琉球大学附属小学校読み聞かせサークルゆいゆい、平和を守る北中城村村民の会、そして、場を提供していただいた中村家、他県内のボランティアの皆さんに支えられ十年以上も継続することができました。
ある時、お年寄りの方が、「わんも、アンニーヤタン(わたしも、そうだった)」と涙声で話して下さいました。
断片的だった記憶が、鋭くよみがえったのかもしれません。
ある高校生は、質問タイムで、思わず涙ぐみ、「実は僕も…家族が…。」と共感の言葉をぽつりぽつり話してくれました。
読み聞かせを始めた頃の子どもたちは、「かわいそうだね。うちのおじいちゃんと一緒だね。」と、つぶやき、2000年頃からの子どもたちは「ほんとうなの?」と驚きの声が増えてきました。 
戦中、戦後を生きたつるちゃんがずっと感じていたのは、ひとりぼっちのさみしさ、つらさでした。いじめや仲間はずれ、孤独等が問題になっている現在、ひとりぼっちのさみしさを感じている子どもが多いと思います。
きっと、つるちゃんのさみしさを共感してもらえているのではないでしょうか。
読み聞かせをする時は、「だいじょうぶだよ。ドンマイ!つるちゃんもがんばってるから、みんなもがんばって!」と、エールを送っているのです。
家庭料理の店「宇」にて、読み聞かせ

感謝

1997年3月には、絵本『つるちゃん』が東京から自費出版されました。
その時は、いろいろな方々のご協力をいただきました。東京の小学校で同じ教員をしている牛島貞満さん、高見鉄二さんをはじめ、準備にかかわって下さった皆さん、そして、販売を引き受けて下さった高文研さん、心からお礼を申しあげます。
牛島さんがおっしゃっていた「ぼくらができること…、それは沖縄のメッセージを東京から発信すること」という言葉が、とても印象に残っています。
その後、6回も増刷され、各地から感想をいただくことができました。
そして、2007年、沖縄発『英語版つるちゃん』を自費出版することになりました。翻訳には、不登校のエピソードを絵本にした「英語版あおじゅごん」の際にも協力していただいた中村・ヒューバー・ケンさんと和恵さん夫妻に再度お願いすることができました。
絵本『英語版つるちゃん』が完成するまでにも、たくさんの方々にお世話になり、中村家住宅の中村さん、本を販売して下さるタイムスさん、県内の紙芝居・読み聞かせサークルの皆さん、ほんとうにどうもありがとうございました。
この絵本が永遠の平和を願うメッセージ絵本として、多くの人々の心に響くことを願っております。
新しい世紀に、平和な未来を創る子ども達へ・・・。
2007年5月1日金城明美
TOP 作者紹介 絵本の使い方 絵本紹介 実践授業 メッセージ リンク 問い合わせ
copyright(C)2011 kinjyou akemi. All Rights Reserved.